野生の籾をテーマとする田辺光彰の最初の作品は、工場建築に伴う作品として1991年に誕生した。この作品をぼくが実際に見たのは場所の関係でかなり後のことである。写 真で見る限り、吹抜けの玄関の壁面高く垂直に取付けられたこの紡錘形の作品は、ステンレス板金を素材として抽象的に整形され、7色に塗装された流麗なオブジェであった。
 しかし後に実見したとき、ぼくはこの作品には作者のあるこだわりが秘められているのに気付いた。それは紡錘形の上部のなだらかに膨らんだ肩の部分に網目のような筆跡が加えられていることであった。これについて作者に質すと、「あそこには胚芽がある」との返事であった。なるほどそう言われると、紡錘形の下部のとんがりがノギに当ることや、その部位 にある2重の括れがノギの短縮を示す工夫であることが見えてくる。更に自生地では水面 に浮んでいる稲穂の中のたったひと粒が、今しも青い水の底に黒い土壌を探り当て発芽の態勢に入ったその色彩 象徴も納得される。実際は殻に覆われて見えないはずの胚芽を見えるようにしたのは、形あるものには心霊が宿るという価値観に作者が律義にこだわったからだろう。この価値観は大量 生産がもたらす大量消費の現代には失われ易い。しかし田辺の場合、このこだわりが後に、やむを得ず伐採された自然木を素材として活用し、複数の大作を生むきっかけとなった。
 1996年、田辺はタイの中央稲研究所付属の博物館に「発芽する籾」を制作した。その素材も技法も、前述の野生の籾第1作とは正反対に異っている。今回の素材は竹であり、技法はそれを割り、束ね、撓め、編み、組立てる手仕事である。古来アジアの民はこの天与の資源を用いて機械も及ばぬ 熟練の技を見せ、日用雑貨類まで神技に近い完成品を作り出してきた。しかし「発芽する籾」は、ステンレスの針金を結ぶ手が朱に染まるほどの手作業でありながら、技の巧みさも完成度の高さも問題にしていない。むしろ逆にさまざまの不規則や不均衡が錯雑する渾沌の中で、不可能への挑戦を始めた未完成な生命(萌芽)の覚束なさを表現しようとしているのである。
 この竹製の籾は、中央稲研究所の80周年を祝う記念碑であるという。籾の内部には古い犂が封じ込めてあると聞いた。その節目を祝う日には、この作品には七夕の竹かXマスツリーよろしくいろいろな飾りが施されたことであったろう。ぼくが作品を見たのは1年後であったが、竹ひごの先には、制作を手伝った若者が好みそうな市販の動物のグッツがまだぶらさがっていた。田辺が後に手がけるグロテスクな動物の制作は、案外こんな遊び心に刺激されたのかもしれない。
 自然木を用いての未完成とグロテスク表現の第1号は、1999年に神奈川県民ホールで催された「田辺光彰展」でのインスタレーションの小道具として発表された。クスノキを輪切りにした数点の動物像である。その後これらの彫像はまとめて横浜市の極楽寺に作者から寄進された。この寺には田辺の初期の作であるブロンズ製の籾が本堂に安置されている。円満具足を形にしたような栽培の籾である。してみるとこの籾の共生として新たに加わったヘビ、トカゲ、ヒル、ムカデなどのグロテスクは、釈尊の親衛隊である阿修羅や夜叉の転生であるのかもしれない。この寺で一夜を過ごした詩人日高てるは、「これら造形の彫りの深みに/梵鐘の音はひそむ」と詠った。一斑を見て全豹を推すといった断片、もしくは余韻嫋嫋の進行形の形態で刻まれたグロテスクは発芽同様、生命の未完成を表現している。

 2003年に静岡大学のキャンパスに設置された2つの記念碑の素材は、枝を払ったメタセコイア(長さ20m)と、枝を整理して残したヒマラヤスギ(長さ10m)の自然木である。前者はタイの「野生稲の自生地保全」を支援する大学の事業を記念して野生の籾が刻印され、校舎はしばしば1本の樹を例にして系統化される「生物多様性」を示している。後者には地球と生命の起源を示唆する隕鉄やストロマトライトなどの物体が内包され、絶滅を危惧されるトカゲやトキの像が刻まれている。生物界は生産者である植物と消費者である動物と清掃者である菌類など各界の絶妙のバランスによって多様な進化をとげてきた。このバランスを脅かすのがヒトであるのは切に警告されなければならない。

 横浜市の廣福寺本堂に須弥壇を挟んで置かれたスギ(長さ11m)とカキ(長さ5.2m)の大木は、長いノギを含む直なる籾と、幹にからまる大ムカデの一対が刻まれている。その形態は素材を無理に作者の意図に従わせようとするものではなく、自然木の生存の軌跡である節や瘤やひびやうろをも綴り合わせたレリーフである。こうした自然との共作もまた未完成の概念に加えてよいとぼくは思う。