佐藤洋一郎 略歴 1952年、和歌山県生まれ。 京都大学農学部農学科卒、京都大学大学院農学研究科農学専攻修士課程修了。国立遺伝学研究所助手、静岡大学農学部助教授を経て、現在、綜合地球環境学研究所教授 。農学博士。 著書:『稲のきた道』(裳華房)、『DNAが語る稲作文明―起源と展開』(NHKブックス)、『DNA考古学』(東洋書店)、『森と田んぼの危機(クライシス)―植物遺伝学の視点から』(朝日選書)など。 |
【1】 | |
イネの仲間の中に、私たちのイネの祖先となった野生イネがある。それは熱帯の各地に今も生息し、人の手を借りることなくその生をまっとうしてきてきた。だが野生イネは今、各地で絶滅の危機に瀕している。急激な都市化やそれによる埋め立て、水の汚染、地方ならば水牛などの家畜がいなくなったことによる水回りの環境の変化などがその理由として挙げられる。このままいけば、今世紀はじめには、タイやマレーシアなど熱帯アジアの野生イネはなくなってしまうかもしれない。 日本にはない野生イネを、どうして日本にいる私たちが護らなければならないのか。それが私たちのコシヒカリの祖先であることが、日本人が野生イネを護らなければならない理由なのか。そうではない。野生イネを護ることは私たち東洋に住む私たちの21世紀の「生存の質」を護るのに重要だからである。 | |
【2】 | |
人は生態系の中で、他の生き物たちとともに暮らしている。生態系の安定には、多くの生き物たちが共存できることがどうしても重要である。つまり多様性を護ることが、生態系の安定を確保するためにどうしても必要なことである。とくに、農耕地をふくむいわゆる里では、いろいろな作物やその品種が多様であること −私たちはこれを遺伝的多様性よ呼ぶ− がとくでに重要ある。 もし里から多様性が失われるとどうなるか。江戸時代、東北日本を中心に飢饉が頻発した。この飢饉では全国で数百万人が餓死したと伝えられている。この時代の日本列島は小さな寒冷期にあったといわれるが、飢饉が起きた理由は寒冷化だけではなく、水田稲作の爆発的な流行が見逃せない原因のひとつであったといわれる。つまり、食料がイネに単一化されたことによってコメ以外の食料の供給が絶たれたことが飢饉の大きな要因であったとされている。18世紀のアイルランドでは、これまたジャガイモ一色になったところに病気が襲って、食料供給が大打撃を受けたといわれる。 このように、多様性の対極にある単一化や一様化が、ときとして多くの人や他の生き物の命を奪うことは、歴史上幾多の事例が如実に物語っている。 | |
【3】 | |
多様性の喪失は、上にも書いたように歴史上繰り返し起きてきた。そのつど人口は大きく減少し、社会システムは壊滅的な打撃を受けた。ところで、1万年の農耕の歴史を通 じて遺伝的多様性が失われた度合いがもっとも大きかったのはこの100年ほどの間である。言い換えればこの100年ほどの期間が、今まで人類が経験した壊滅的打撃の中でももっともひどい打撃を受けてもおかしくないほどの多様性の喪失がいま起きている。栽培や食の文化のグローバル化、生産の効率化などがその主な要因であるが、たとえば日本のイネ品種は、1880年の約4000から2000年の160と、120年の間にその95%が失われた。おそらくわれわれはほどなくその影響を受けることになるであろう。 | |
【4】 | |
このような過去の歴史に照らせば、多様性の回復が、生態系の安定のために、ひいては人類の生存のために欠かせない条件の一つであることがわかる。かつて、失われゆく多様性を保存するため、「遺伝子銀行」の概念が提唱され、世界各地に遺伝子銀行が設立された。具体的にはそれは、なくなりかけた古い品種を遺伝子銀行という施設のなかに保存し、将来の利用に備えるというものであった。だが、遺伝子銀行は、遺伝的多様性を遺伝子銀行の中では護れたが、生態系の中では護ることができなかった。 ここに、多様な遺伝資源を里におこうという、いわゆる「自生地保全」(英語では in situ 保全)の考え方が成立する。自生地保全は新しい概念で、いままだ大きな流れにはなっていない。面 白いことに、世界でもっとも早くこのことに気づき、実行しようとしたのは、研究者ではなく一人の芸術家であった。さらにその芸術家が日本人であることに注目したい。 この芸術家田辺光彰氏は野生イネをモチーフとする作品を数多く手がけてきたが、同時に、野生イネの自生地保全にもっとも熱心な芸術家でもある。私は一人の研究者として、この田辺氏の行動に賛意を示したい。彼の自生地保全に対する芸術家としての視点と、私の研究者としての視点には違いがあるかもしれないが、自生地の保全が里における遺伝的多様性の保持に欠かせない、殆ど唯一の方法であることに変わりはないからである。 |
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