A Seed of Wild Rice ・ MOMI-2008, photo TAKAHITO
TAKAHASHI |
このたびローマにある国際連合食料農業機関(FAO:Food and Agricultre Organization)に本部を置くグローバル作物多様性トラスト(Grobal Crop Diversity Trust)では、日本人の彫刻家田辺光彰の作品[A SEED OF WILD RICE・MOMI-2008]を FAO の庁舎内に収蔵し、常時展覧することになった。それはこのトラストが、ノルウェー政府およびノルディック遺伝子銀行と提携して管理運営する、スヴァールバル国際種子保存庫(Svalbard International Seed Vault)の新設を記念し、その趣旨をひろく世に啓発するためである。北極圏内のスヴァールバル諸島にあるスピッツベルゲン島の急斜面 を掘削し、永久凍土層に300万種の農作物の種子を貯蔵しようというこの種子保存庫は、あらゆる天変地異および戦争、公害、事故などの人災に備えて万全を期す究極の safety belt を全世界に提供することを意図している。 |
FAO
Food and Agriculture Organization of the United Nations photo MITSUAKI TAANABE |
田辺の今回の作品は、稲の原種である野生稲の穂から採取した種子(rice
seed)の一粒(日本語では MOMI という)を、ステンレススチールの鋳造によって拡大表現している(長さ9m、重さ250kg)。野生稲の
MOMI は鎧のような固い種皮に覆われ、その先端に槍に似た長く鋭い一本の芒を持っている。栽培稲の
MOMI も同様に堅牢な種皮に包まれているが、芒は退化して痕跡を止めるのみとなった。芒の長さは野生稲の品種に応じて
MOMI の10倍から20倍に達するものもある。 |
近年、田辺の制作は二つの場所でそれぞれ別
の新しい展開を見せている。その場所とは、野生稲の自生地を持っているが稲作はやっていないオーストラリア北部と、鬼稲と俗称される固有の野生稲を失ってその復元に努めている極東の台湾である。鬼稲の鬼とは亡くなった祖先のことで、ときには子孫に仇なすこともある霊をいう。MOMI
が早く脱落しやすいこの鬼稲が田圃に迷い込むと、栽培稲と紛らわしく厄介である。 2006年、田辺はオーストラリア、クイーンズランド州 のマリーバ湿地帯(Mareeba Wetland Foundation)にステンレス・スチール圧延板製の巨大なトカゲ像(長さ19m、重さ11ton)を設置した。その尻尾には「野生稲の自生地保全」の文字が刻まれており、明らかに「MOMI」に代る新しいメッセンジャーの登場が見てとれる。しかし両者が伝えるメッセージには多少のニュアンスの違いがあるように感じられる。 |
野生稲は、稲作地帯ではときには鬼になることもある「稲の父」であるが、稲作をやらない地域では、一部の専門家を除く大多数の人びとにとってはただの「雑草」である。名のない草であり、得体の知れない雑多な生物の仲間である。一方トカゲは、れっきとした氏素性をもち、ヨーロッパ美術ではよく燭台の飾りに見かけるように、古来光明と復活を象徴する動物であった。野生稲の自生地でも外敵を駆除する側の存在でありながら、なぜか人間に毛嫌いされ存続さえ危ぶまれるようになった爬虫類に属している。こういう不条理な立場にあるトカゲこそ、名もない雑草の声なき声を伝えるメッセンジャーにふさわしいと田辺は考えたに相違ない。 その証拠に田辺は、オーストラリア、ノーザンテリトリーのダーウィン(Northern Territory;Darwin)近郊でも、原住民の聖地にある自然石群に、野生稲ばかりでなく雑多な生物たちの多様な生存を擁護する彫像制作を5年このかた現在も続けている。その中には、やがてこの地方の湿地帯にも盛大に繰りひろげられることになるであろう“渡り鳥の楽園”を夢みて、それこそ「手の舞い足の踏むところを知らず」といった「喜びに踊るトカゲ」の像も刻まれている。 なお、オーストラリアの仕事とは別 に、田辺の次なる構想には「MOMI の鎧を着たトカゲ・トカゲの目をもつ MOMI」がふくらんでいるようである。 |
2007年、田辺は前述した台湾の美術館で金属製とドローイングによる「MOMI」の展覧会を催した。台湾は、もともと野生稲のない日本に代ってその遺伝学的研究を発祥させた地であり、日本人の岡彦一博士や、その教え子森島啓子博士のような偉大な先覚者を生んだ。岡博士は1945年の光復(台湾の祖国復帰)後も同地の大学で教鞭をとり、森島博士とともにその研究を同地に根付かせたのである。ところが鬼稲はその後1970年代に不幸にして消滅した。当時日本の国立遺伝学研究所に在籍していた両博士は、同研究所にあった鬼稲のサンプルをただちに移植する措置を講じたのである。現在それは両博士の感化を受けた台湾の研究者とその弟子たちが手厚く守り育てている。 田辺の展覧会は両博士の功績を顕彰すると共に、田辺自身の思想形成にも一方ならぬ 恩恵を蒙った両博士の志を継いで、鬼稲の自生地復元を応援する趣旨であった。このとき展示した金属作品はそのまま美術館に収蔵され、10mを超えるドローイングは、台湾、台北市の国立台湾大学・生物資源および農学院(College of Bioresources and Agriculture、National Taiwan University)に常陳された。 今回 FAO に展覧される作品は、台湾の作品と同じ鋳型を用いた姉妹作品である。ただしガウジングは鋳造後の手仕事であるから一品生産であって、複製ではない。また鋳型のモデルはオーストラリア産の稲の品種 Oryza meridionalis である。この品種は東南アジアでは栽培稲の原種 Oryza rufipogon に近似の種であるが、オーストラリアでは栽培稲と交雑することのなかった純粋種と考えられる。 |
野生稲自生地 オーストラリア・ノーザンテリトリー州 |