明治十九年、東海道一の大親分と言われた清水次郎長が、清水波止場に開業した船宿が復元されました。
 この船宿「末廣」は、清水港振興に尽力した次郎長の晩年の姿を表現し、幕末から明治をかけぬ けた 次郎長と清水港を知る上で貴重な建築物です。
「末廣」では、晩年の住居を港の中心部である波止場と定めた、子供好きの次郎長を偲び、ご来館の皆さまにご参加いただける行事を企画しています。 遠方の方も、お近くの方もお気軽にお越しいただき、お楽しみ下さい。
 

船宿「末廣」最新情報
住  所

 静岡市清水区港町1-2-14

交  通
 JR清水駅からバス三保方面 行き・港橋下車
電話番号
 054-351-6070
開館時間
 10:00〜18:00
休  日
 月曜日

明治大正ロマン漂う室内
2階和室 明治百年 郷土民俗資料の展示
1階 展示室

次郎長と末廣 その軌跡

明治維新と次郎長の転機
 明治元年の秋、旧幕府の軍艦「咸臨丸」が官軍に襲われた際、乗員の遺体を手厚く葬ったことを契機に、次郎長は終生変わらぬ 師、山岡鉄舟と出会い、この出会いが次郎長にとって大きな転機となりました。


山岡鉄舟について
 山岡鉄舟は、天保7年(1836)に江戸で生まれました。
 剣を北辰一刀流の千葉周作に、槍を忍心流の山岡静山に学び、山岡静山の急逝後、その妹英子と結婚し、山岡家の養子となりました。
 鉄舟は、文久3年(1863)には清河八郎が結成した、将軍警護を目的とした浪士隊(のちの新撰組)に幹部として参加しますが、その分裂後江戸に戻ります。
 5年後の明治元年(1868)に、駿河まで進軍した新政府軍の西郷隆盛宛に、将軍徳川慶喜の朝廷への恭順の意を記した手紙を手渡すという大役が勝海舟から鉄舟に与えられます。
 鉄舟の功績により、西郷・勝の会談は順調にまとまり、江戸城の無血開城が決められ、江戸の町を戦火から救いました。

 

港のおじいさん「末廣」での出会い
「末廣」には、日露戦争で活躍した広瀬武夫や小笠原長生、画家の富岡鉄斉、広辞苑編者の新村出などが訪れ、次郎長と歓談しました。
「港のおじいさん」これが次郎長の最後の姿です。
「末廣」はしっかり者のおちょうにまかせっきりで、木綿の着物に素足でどこへでも出かけました。

その後の「末廣」と復元まで
大正5年おちょう死亡。次郎長の養女、山本けんが引き継ぐ。
大正8年売却され、船宿「港屋」として開業。
昭和13年売却され、清水鶴舞町に移築。
平成11年調査の結果 、鶴舞町の部材が「末廣」のものであることが判明。
平成13年創業当時の部材を生かして「末廣」を復元。